教師の解釈を求める授業

editorship: 「子ども同士の話し合い」で失われるものもある

 

教師の的確な「翻訳作業」によって、子どもの断片的な発想や、ユニークな言葉がつぶされずに「意見」の形として学習内容としてまとめられていく。教師に的確な「受け」の技術があれば、子どもたちだけの話し合いでは得られない共同での学び合いが可能になる。 

 

 私は,これをいい意見とは思えません。それは,そこまでしないとわからないことを子どもに教える意味があるかどうかわからないからです。

 教科を教えることの魅力,というのは教科によって異なります。文学を味わって欲しい,数的読解の面白さ,歴史考証の白熱,様々あります。しかし,それらは度をすぎると「学習指導要領」を超えたいわば「余計な」授業になってしまいます。また,上記引用で行われている話し合い活動が深まった議論にならないことには原因があると思います。まず,子どもが「正解」を求めている,という点です。ここで言う子どもが求めている「正解」とは,「教師の解釈」と言えます。しかし,それは作品の勉強をするのではなく,教師の解釈の勉強になってしまいます。それでは,子どもたちの自由な話し合いからは生産的な意見よりも妥当な意見が採用されてしまいます。ユニークな意見をたくさん出したいのなら,そういう雰囲気・発問の工夫が大切です。