待つことの大切さ

人を教育する立場に立つと、どうしても自分には出来て相手には出来ないことを相手が出来るようになるまで監督?する必要が出てくる。指導者として力の見せ所でもある。

もちろん、教えることは大切であるが、教えすぎることも考えものでもある。

例えば野球だ。休日の中学、高校のグラウンドでは日夜野球部が監督の声に合わせ動き、練習をしている。監督の声に集中し、監督の指示に従う。よく見かける光景であるが、選手一人一人が自分で考え行動する機会を奪っていることにもつながっている。よく見かける光景だからこそ、多くの場面で自分で考え行動する場面が奪われているわけだ。

私たちは責任を追うことから逃げる性質がある。怒られるのを、罰則を、処分されることを嫌っている。それは一定の評価を受けることからの逃避でもある。逃げるのは恥だが役に立つ、と最近のドラマは言うが一理あるからこそ受け入れられる言葉なのだ。指導者は責任を負うことを恐れてはいけない。だからこそ、熱心な指示を出すこととなる。

一方で、教育者の立場から考えると、技能を身につけることも大切であるが、自分で考え行動する力を育てていくことも欠かせない。だからこそ、すぐにできるようになることを重視せず、出来るまで待つ、ということも大切になる。しかし、待つことも大変だ。出来ない姿を何回も見るのだ。支えてやることはしても結局できるようになるのは本人の努力だ。指導者の技術ではない。本人の努力だからこそ、出来たときに大きな自身になる。それが大きな喜びにもつながる。指導者であり、教育者であり、1人の大人として子どもたちの成長を支えていくことに待つことは欠かせないのだ。

待つことはじれったくて歯がゆくて不安で仕方のないものだ。しかし、待ちきって成功したときは共に喜ぶことが出来る。初めて補助輪なし自転車に乗れたときどうだっただろうか。間違いなく喜んだはずだ。そして見守り、1人で乗れるよう支え「待った」家族もまた喜んだはずだ。待つことは辛いがためになる。それが自信を生み出す。