忙しさについて

「忙しい」という言葉はよく耳にする。実際私自身も口にしたり思ったりしているが、その忙しさとはどこからくるものなのだろうか。もちろん、単純に業務が多くて処理が追いつかずにそう言っていることだってある。しかし多くの場合、その忙しさは肉体的な忙しさではなく精神的な忙しさにあるのだ。

 例えば、お昼のファストフード店を想像してみよう。本来客であるこちらが遠慮するほどの目まぐるしさで来客の対応をする店員がいる。こういう忙しさというのは仕事が終わらない、という意味で忙しい。これは一過性のもので長続きはしない。ある程度終わりが見えているからこそ、最後まで頑張ろうとする意識が生まれる。しかし、その終わりが見えなければどうだろうか。普段、仕事で使う「忙しい」という言葉は終わりが見えないからこそ、口から吐き出されたりする言葉のように見える。しかし、本当に終わりは見えないのだろうか。そうとは言えないはずだ。

 仕事に終わりは確かにない。しかし、作業や業務には終わりはあるはずだ。その終わりが見えていない状態、というのは終わりまで考えるだけの思考力を割く能力が足りていない状況なのだ。こういうときは紙に書き出してみるのが最もよい。思考を外に預けてしまうわけだ。思考というのはものすごい速さで情報のやり取りを脳内で行っている。それの速さは人や状況によって全く異なるが、それを処理するだけの能力を確保しておかなければただ情報が行き来するだけでどこに着地すればよいのかわからなくなってしまう。

脳、という組織は人間の内臓の中で最も優れた処理装置だ。その処理装置を有効に扱う人もいれば、扱えない人もいるわけだ。ぜひ有効に使えるようになるためにも、無駄遣いしないやり方というのを鍛えたいものだ。