心を動かすと心を揺らす

最近はお盆休みということもあり,多くの人が映画を見に行っている時期かと思います。
映画を見た後というのは映画について色々と語りたくなり,ついついTwitterフェイスブックに書き込むなんてこともよくあるでしょう。
多くの場合,「感動した」「すごかった!」のようなコメントが見られますが,果たしてそれは本当に「感動した」のか疑問があります。
 
「感動」とは文字通り「感じて(心を)動かす」ことです。
心が動くのであればそれは感動というでしょうが,人間にとって心が動くとは結構大きな出来事だと私は捉えています。
心が動くということは自分の行動指針の一部に変化が生じることだと思います。
そうであれば,考え方や行動に変化が伴わなければ感動とは言えないのではないかと思います。
 
感動すると似たような使い方で「心が揺れる」なんてのを使うかと思います。
文字通り心が揺れる,迷っているような状態ですが,「感動」に比べたら動きは少ないように思います。
「動く」と「揺れる」を比べて見て違いは何でしょうか。
おそらく足がその場から動くかどうかの違いでしょう。
心に足はありませんが,ここではある,と思いましょう。思ってください。
 
足がその場から少しでも動くということは心にとってどのような影響があるのでしょうか。
「感動」とは,先に述べたように「心が動くということは自分の行動指針の一部に変化が生じること」であれば,足が動く,ということはその変化が生じた,ということでしょう。
逆にその足が動いていない「揺れた」状態であれば,心に変化は生じません。
ただ揺れただけなんです。
映画なんかを見て,感動した方が多くいるかもしれません。しかし,本当の意味で「感動」したのかについては疑問を持たざるをえないのです。
 
コミュニケーションにおいても同様のことは言えます。
よく「泣かしたから大丈夫」というような話を職員室なんかで聞いたりしないでしょうか。
涙は心に変化がなければ生じません。
そういう意味では「感動」したからこその涙かもしれません。
しかし,その後の行動が変わる涙がすべてでしょうか。
その場では涙を流しても心が動くわけとは限りません。ただ揺れただけ,という事例もあるはずです。
 
「泣かしたから大丈夫」というのは単純に心を揺らしただけ,という可能性も秘めているのです。
人の心を動かす,ということは並大抵のことではありません。
そのためには相応の努力や熱意を伝える必要があります。
それを本当に伝えなければただ心を揺らしただけで本当の変化は起きないのです。