忙しさについて

「忙しい」という言葉はよく耳にする。実際私自身も口にしたり思ったりしているが、その忙しさとはどこからくるものなのだろうか。もちろん、単純に業務が多くて処理が追いつかずにそう言っていることだってある。しかし多くの場合、その忙しさは肉体的な忙しさではなく精神的な忙しさにあるのだ。

 例えば、お昼のファストフード店を想像してみよう。本来客であるこちらが遠慮するほどの目まぐるしさで来客の対応をする店員がいる。こういう忙しさというのは仕事が終わらない、という意味で忙しい。これは一過性のもので長続きはしない。ある程度終わりが見えているからこそ、最後まで頑張ろうとする意識が生まれる。しかし、その終わりが見えなければどうだろうか。普段、仕事で使う「忙しい」という言葉は終わりが見えないからこそ、口から吐き出されたりする言葉のように見える。しかし、本当に終わりは見えないのだろうか。そうとは言えないはずだ。

 仕事に終わりは確かにない。しかし、作業や業務には終わりはあるはずだ。その終わりが見えていない状態、というのは終わりまで考えるだけの思考力を割く能力が足りていない状況なのだ。こういうときは紙に書き出してみるのが最もよい。思考を外に預けてしまうわけだ。思考というのはものすごい速さで情報のやり取りを脳内で行っている。それの速さは人や状況によって全く異なるが、それを処理するだけの能力を確保しておかなければただ情報が行き来するだけでどこに着地すればよいのかわからなくなってしまう。

脳、という組織は人間の内臓の中で最も優れた処理装置だ。その処理装置を有効に扱う人もいれば、扱えない人もいるわけだ。ぜひ有効に使えるようになるためにも、無駄遣いしないやり方というのを鍛えたいものだ。

福袋

福袋ってのは日本生まれの文化です。海外ではラッキーバッグ,という呼ばれ方をしているそうですが,福袋をラッキーバッグとはあまりにそのままです。

 そんな福袋ですが,毎年いろんなお店が出しています。いくつか気になる福袋はありますが,なかなか自分では買おうとはしないんです。理由は単純で「中身がすべて自分が使えるようなものではない」からです。

 使いもしないものを買うのは非常にもったいないように感じるのですが,福袋を買って自分では使わないものが入っていた時,みんなはどうしているのでしょうか。中には転売をする目的で買い,ヤフオクや海外輸出して利益を得ている人もいます。10個入っていた内,5個はもらって,残りは他に売ったり譲ったりしているのでしょうか。利益を得ることを悪いこととは思いませんが,福で利益を得るのはバチあたりも大概な気がします。

 話は変わりますが,なぜ「大概」と打ち込むとこのパソコンは「体外受精」なんて予測変換を出してくるのだろうか。そんな言葉入力した記憶がないのだけど…。最近のホットなワードなのだろうか。「お前がママになるんだよ」とかなら分かるのだけど…。

 話がずれましたが福袋です。福袋っていうのは非常に購入意欲を掻き立てられませんか。ボーナスも出て,子どもならお年玉をもらって,あれこれ買ってみたいというような時期になります。福袋じゃありませんが,私も色々買いました。カッターシャツを5枚のセットを買ったり,イヤホンとBluetoothスピーカーのセットをスピーカーのみの価格で買ったり,本を買ったりなどなど。

 元旦というのは外に出るだけでどんどんお金が飛んでいきます。くれぐれも財政が飛んでしまわないよう,福を逃さず福を得たいです。福は内ってね。

占い

mdpr.jp

 

新年明けたわけですが,年の始にすることといったら,初詣でしょう。

そして初詣にいけば大体の方が運試しをするでしょう。くじ引きです。女性に特に多いですが,占いのようなものを好む人は多いです。占いにもいろんな指標がありますが,今日見つけたのは,「星座」と「干支」と「血液型」の3種類別計576種類に分け順位をつけたものです。普通の占いって一方的に相対的な運勢が知らされたり,種類が少なかったりしますが,576種類もあるとついつい見てみたくなってしまいますね。

探した結果,43位でした。

あなたは何位ですか?

2016年

新年があけました。2016年申年です。

 

ここ2日無心になってキーボードを打つ指に身を任せてただブログに文字を打ち込むようにしています。編集は改行だけ,文章の校正は意図的に行っておりません。自分の文章のリズムというのはひょっとしたら気持ちの良い文章なのかもしれない。もし違っていても,これから文章を書くことを重ねていくことで鍛えていけるかもしれない。そう思ってやっています。

ひとまずは温かい目で見守ってください。

 

それでは今年も1年よろしくお願いいたします。

三脚について

 今日は,秋葉原ヨドバシカメラで三脚を買った。Fotoproというメーカーのもので小さくて軽量で水準器まで付いている,というのがとても惹かれた。何より安かった。

 三脚,というのはカメラの界隈の中ではレンズほどではないが,買いだしたらキリがない代物だ。三脚は足の部分だけでなく,カメラと接続する部分が別売りされている位だ。大真面目に買いだそうと思えば5万は余裕でかかる。そんな中2千円ちょっとのものを買ったのだが,私にはこれがちょうどよいのだ。何百枚も何千枚もその三脚で撮り続けるとは思えないし,数万円も支払ってまで使い倒すとも思えない。

 価値は値段で決まるのではなく,利用者の用途によって変わるわけだ。有名な写真家,尊敬する写真家,定期購読しているブロガー,ユーチューバーが利用している三脚が価値の高いものだったとしても,価値が高いのはその人達のその人達なりの用途に適した性能を発揮できているからだ。

 教育も実は一緒で,ある人の実践が非常に優れていたとしても,誰が実践しても非常に優れた実践になるとは言いがたい。その人のリズムや雰囲気,能力があるからこそ優れた実践になっているだけ,という可能性も否定出来ないわけだ。

 真似をする,ということは悪いことではなくむしろ推奨されていくべきだ。ただ,参考とする人の真似をするだけでは,十二分に自分や製品の個性や能力を生かし切ることが出来るわけではない。浮足立たず,冷静に自分にとっての使い方を考え,地に足の着いた練習を重ねていくべきだ。三脚の足のように。

天気と機嫌

 人の心というものは天気に似ている。雲ひとつない快晴かのように機嫌が良い時もあれば、豪雨のように悲しみに満ち溢れていることがある。

 ある中学生は非常に機嫌が悪かった。その悪さというのも豪雨しか降らない梅雨のようで、なかなか止むことはなかった。心が雨模様、なんていうように天気と機嫌というのは密接に関係しているわけだ。

 では、どれだけ関係しているのだろうか。雨の日、人は誰しも機嫌が悪くなるのだろうか。そんなことはない。では、晴れの日はみんな機嫌がよいのだろうか。それも違う。確かに天気と機嫌はつながりがあるのかもしれない。しかし、完全につながっているとも言いがたいわけだ。

 運勢だってそうだ。運がよい時もあれば悪い時だってある。それは天気と関係があったとしても、晴れの時が良いわけでなく雨の時に悪いわけではない。それだったらみんな晴れの日に年末ジャンボを買えば、みんなが1等前後賞だ。

 天気は常々人の機嫌や運勢など、人間の様子と絡められて言及されることがある。しかし、それは単なるこじつけであることが多く、それを信頼し切ることは難しいことだ。天気一つで運勢が変わるわけがない。

 もちろん、運勢というものも機嫌というものも否定するわけではない。ただそれらは一過性に良くなったり悪くなったりするだけなのだ。しかし、機嫌も運勢も天気予報のように予測できるようになれば多くの人は幸せになれるだろう。機嫌は予測できない、運勢もまたしかりだ。

 明日、運勢が良いならぜひとも年末ジャンボを買って幸せを得たいものだ。

一本の芯を持つ

朝令暮改って言葉ですべて片付くんですが,言うことがコロコロ変わる人というのは信用をなくします。

 

言うことを変えること自体は決して悪いことではありません。

考えを改めて変えるのであれば全く問題もなく,意図が伝われば訂正に大きな支障はありません。何より人間関係にヒビが入りません。

 

しかし,言っていることがコロコロ変わってしまうとどれが正しいのかわかりません。

考えを改めてるのではなく,その場のノリや直感で発言しているとそれはいつか他者に見ぬかれてしまいます。

その場のノリで主張を変える人は信用することが出来ません。

 

だからこそ,間違ったら謝り訂正できる人というのは素晴らしい性格の持ち主なんです。