続けること

受験勉強する人の姿を継続してみていると、一気に集中して身につけた人と比べて、長い時間かけてじっくりと身につけた人の方が能力が高いことが多い。
続けるということは、知っての通り難しいことだ。それができるのは、自身の強い意志があることはもちろんだが、それをしっかりと見てくれている人の存在も大きい。
高いお金を払って学習塾に通っても続ける意志、目標に向けて頑張ろうとする姿勢がなければ、大した結果を得ることはできない。
続けることは誰でもできる。それを習慣化することはある意味才能と言ってもいいかもしれない。
何か成し遂げたいものがあれば、まずは毎日積み重ねてみるべきだ。その積み重ねを意味を感じているのであれば、きっと続くはずだから。

発信すること

日曜日に買い物で外出すると大抵子連れ客に出会います。

喫茶店やファミレスなんかで出会うと子どもと親(祖父母含む)の会話が聞こえてきます。

「甘いー」「硬いよー」「ねー汚れちゃったよー」「◯◯(妹)も美味しそうだよ」

などなど,自他の様子,特に自分の感想を保護者に伝える様子が本当に多く見られます。

人間っていうのは本来このような情報や感情を発信することを本能的に行うように作られています。

 

人類にとって最大の発明は文字文化です。

文字という書くルールがなければ記録しても解読することに時間がかかり,故人から学ぶことができなくなるからです。

人類は文字を開発することで言葉だけでなく,知識・記録・感情を残すことが出来るようになり,先人の書を読むことでその一歩先を歩むようにしてきました。

今も私たちは教科書を始めとする書物を読むことで先人の学びを血肉に変えています。

 

文字は人類が生まれ持つ発信する力を死後も行うことが出来るようにしてくれました。

そして,インターネットの普及でその発信力は一気に高まりました。

今後は必要な知識,情報発信源にたどり着く力,技術が進化することでしょう。

自分にとって素敵な場所

自分の部屋の状態というのが自分の心の状態を表している,という言葉があります。

非常によく表した喩え話だな,と思います。私の部屋は最も散らかっていた時期からは綺麗になりましたが,まだまだ散らかっています。なんとかしなければ,と思ってもなかなか手が動き出しません。手の前に腰が重たいのかもしれません。

部屋というのは自分の(ある程度)好きなようにレイアウトを決めて,飾るものを飾って使いやすく,住みやすく作り上げていくことが出来ます。自分にとってこれがいい,という形は当然あるのですが,その部屋に物はあまりない事が多いです。しかし,私の荷物はいろいろとある。どうやってそれを見えないようにすべきでしょうか。

部屋というのは自分の心情をものの見事に移しきっています。そこに帰りたい状況があることが心理的にも最も良い状況でしょう。しかし,帰りたくない,居たくないと思うようであれば,部屋だけでなく,心も綺麗にすべきです。本心に嘘はつけません。考えることは最小限に。部屋のものも最小限に。ミニマリストではありませんが,考えるもの,ある物どちらも少ないほうが過ごしやすいです。

 

最適な勉強法

先日、実家に帰った時屋根裏部屋で昔の資料をひっくり返して見ていました。小学1年生と2年生の時のノートやプリントです。

いまからだいたい20年くらい前のものなのですが、だいたい1995年くらいの学級通信というのは手書きのものだったみたいです。一方で、児童の名前については判子を使って簡略化しており、ワープロが使えずとも少しでも時間短縮をしようとする様子が伺えました。
本題は算数のプリントです。
2年生の算数というと真っ先に思い出されるのは九九です。私のクラスでは九九暗唱のテストがあり、締め切りまでにすべて暗唱できなければ居残り、だったような気がします。とにかく九九あんしょうのテストががあったわけです。とうじのわたしはなかなか覚えられず、上靴の甲の部分に水性ペンで答えをかいてカンニングをしていました。大人になって思えば、そういうところに頭を使わずに何度も書いたり言ったりして覚えればいいのに、と笑ってしまいます。先生にバレたかは残念ながら覚えていません。
そんな九九の単元はどうやら一斉指導の授業はあまり行われていなかったようです。プリントによると、ノートに九九を書いたり、問題を解いたりした最後に暗唱テストを行い、クリアしたら次の段に進むという、児童によって進具合の違う授業方式が取られていました。その暗唱テストの途中で私はつまづいていたわけですね。多分6か7の段だっっと思いますが・・・。
九九をすべて覚えることは2年生にとってなかなか大変なことです。それを一斉授業では対応しきれなかったのでしょうね。
先生の苦労が今になって感じることができるようになりました。
授業を受ける人にとって最適な授業形態は異なります。だからこそ、それぞれにとって最適な学習方法を選ぶ自由を与えることも教師として行うべき環境設定のひとつではないでしょうか。

成長に立ち会う

休みの日というのは誰にとっても日々の疲れを癒す大切な日です。こういう日こそ思い切って普段できないことをやって心も体もリフレッシュするのが良いと日頃より考えています。
普段なかなか買わない服を買いに行くもよし、あまり行かないコーヒー屋さんでコーヒーを飲むもよし、休みの日の遠出というのは疲れこそしますが、その疲れを忘れさせてくれます。
普段は街を眺めたり、歩いたりしないので、休日の他の人の行動というのは色々と目に付いたりします。階段をハイハイで上り下りして遊ぶ3歳くらいの女の子を見ました。周りに親はいるのだろうか。親は何をしているのだろうか。かいだんから転げ落ちたりしないからなど、色々考えました。近くでそれを眺める6歳くらいの女の子もいました。その女の子もも気にしているようで、6歳なのに年上として見守ろうとする貫禄がありました。
些細な場面ですが、こういった一瞬の間に子供の成長や、年の差を感じることができます。関係のない他人であってもしんぱいしようとする心もが育っているのだと感じることができました。
子供の成長をいつどこでかんじるかはわかりません。しかし、誰もが日々の成長しています。
その成長の姿を見ることができることは非常にありがたく、非常に嬉しくなる瞬間です。

顔色を伺う

人間は生きていく上で他者とのかかわりは切っても切り離すことが出来ない。人間である以上,他者から嫌われる,ということも避けたがる。そうすると必然的に相手の顔色を伺っては都合よく発言を変えてしまう人だっている。

相手に怒られないように,相手から好かれるようにするために顔色を伺いながら人はどうしても付き合いをしてしまう。それ自体に悪いことは決してないわけだが,それで支離滅裂になってしまうことが問題だ。

ある方では信頼していることを告げて信頼感を勝ち取り,ある方では信頼出来ないといい相手を引き落とそうとすることだってある。顔色を伺って発言を変えることで自分の立ち回りをよくし,他者の立ち回りを悪くしようとする動きだって見えてくる。

そういったときに自分は決して顔色を伺って発言を変えてはいけないわけだ。相手の土俵に入って勝負をするのはどうも負け戦になりがちだ。勝負というのは自分の土俵でするからこそ勝つこともできるし負けも認めやすい。

顔色は刻一刻と変わり続ける。そんな刻一刻と変わるものをいちいち気にしているようではあっという間に精神的に疲れてしまう。健全に生きるには健全な生き方がある。誰に対しても言葉を変えないことだ。言葉は立場によって変える必要がある。言葉を変えざるを得なくなっても方針だけは変えてはいけない。方針こそ個人を決定づける大きな要素なのだ。

自己管理

気持ちに整理がつかない間はどうしても身の回りに目が行かなくなってしまう。

大きな仕事を終えて家に帰る。ドアを開けて部屋を一望すると,たくさんの洗濯物が置いてあることに気がついた。今までこんなになるまでほったらかしにしていたことに驚く。

どうしてもなかなかふんぎりがつかなくてどんどん溜まっていく洗濯物を見ると自分の自己管理能力のなさを痛感させられる。